神学経済 on beat.

大学院で経済を勉強中のクリスチャンが神学と開発経済についてを趣味のCHH (Christian Hip Hop)情報と一緒に記録してます。

神の正義とあわれみ

今、僕の働いている教会では正義とあわれみのミニストリーを始めようとしています。
そこで、少し聖書から神様の正義とあわれみについて考えてみたいと思います。


出エジプト記34:6-7 を見るとこうあります。

は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、  恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

ここには、神様の正義とあわれみという両方の性質が出てきます。ここで、大切なのは、正義とあわれみのどちらもが正しく神様を表すということではないでしょうか。

私たちの小さな頭では、その二つは矛盾しているように思えてしまいます。悪いことをした人を罰するのは正義だけど、赦すのがあわれみなんじゃないかと。その結果、神様に矛盾があったり、聖書に矛盾があるのではないかと考え始めます。教会では「愛の神」や「神の愛」という言葉が頻繁に使われますが、それは聖書の、特に旧約聖書の語る神様の姿とかけ離れているように感じることもあります。その結果、どちらかだけを極端に主張してしまうことも多いのではないでしょうか。ただの優しくよりそってくれるイエス様のことだけを聞いていると、旧約聖書の神様は全く違う人のように感じますし、黙示録のイエス様もすっきり受け入れることができなくなってしまいます。黙示録の19章ではイエス様のことをこう語っています。

それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。  その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

 

大切なのは、全体的な神様の姿をしっかりと理解することではないでしょうか。それは、神様はあわれみ深く、それでいて罰すべきものを必ず罰する方だということです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか。

 

皆さんの人生での一番大きな必要はなんでしょう?食べ物や空気でしょうか?家族や友人でしょうか?聖書の語ることは、私たちの一番大きな必要は霊的なもので、それは罪の赦しです。神様に造られていながら、その神様に罪を犯す私たちは、赦しを必要としています。普段、赦しと考えると、神様のあわれみ深さや愛と結びつくのではないでしょうか。けれども、聖書は赦しを神様の正義とも結びつけています。

1ヨハネ 1:9

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

それは神様の正義が満たされるところに赦しがあるからです。正しい方である神様は、必ず私たちの罪を罰する必要があります。私たちの罰は必ず払われる必要があるものです。そこに、イエスキリストがやってきてくれました。永遠の全能の神であるお方が、人としてこの世にやってきて、罪を犯さない完全な人生を生きました。この方が、罪にまみれた私たちに変わって、罪の対価をすべて払い、神の正義が満たされ、神様の正しさが私たちの赦しへとつながります。この十字架の上でこそ、神様の正義と愛が出会います。だからこそ、十字架こそが神様の性質が最大限に現れる場所なのです。これが私たちが信じる福音です。

 

神様は正義であわれみ深い方です。イエスキリストも神の本質の完全な現れ(ヘブル1:3)として、正義であわれみ深い方です。では、私たち教会はどうあるべきでしょう?

エペソの1:22にこうあります。

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 教会はこの世でイエス様の体となり、イエス様が満ちておられる場所だとパウロは言っています。ということは、教会もイエス様と同じように正義とあわれみを求める存在であるべきではないでしょうか。世界は罪の中にあって、いろいろな痛みで満ちています。貧困があり、子供たちが苦しい暮らしをしていて、お腹の中にいるたくさんの赤ちゃんが殺されています。女性や外国の人たちが差別されている現実があります。その中にいて教会は、聖書から正義を求めて活動し、弱い人や虐げられている人たちにあわれみを示し続ける場所であるべきではないでしょうか。そして、正義とあわれみの出会う場所として、十字架を高く掲げて、述べ伝え続ける場所であるべきです。すべての人が神さの正義に逆らって罰をうけるべき存在ですが、悔い改め、赦され、正義とあわれみのために生きることができます。

神様の正義とあわれみのバランスを忘れずにいることが、私たちの教会としてのバランスにもつながるのではないでしょうか。