信仰者として経済学を学ぶ意味~神学の優越性
現代経済学はますます数学的になり、思想や神の存在は片隅におしやられています。このような状況の中、信仰者として経済学を学ぶ意味はどこにあるのでしょう。
学校の勉強と自分の信仰を切り離して、割り切ってやるのは簡単です。ですが、信仰は自分の人生のすべてを統べるべきものではないのでしょうか。
今日はこのような問いに対する ポール・オサリントン (Paul Oslington/デーキン大学教授)の考えを見ていきたいと思います。
初めに大切なのは、信仰や神学といったものが世俗的な学問をしている信仰者にとってどういう存在であるべきかということです。
ジョン・ヘンリー・ニューマンは世俗的な学問を排除することなく神学の優越性を認めるべきだと主張しました。
ニュービギンはもし福音が真実だと信じるのならば、それは人生のあらゆる領域で福音は真実であり、すべての領域でイエスキリストが主として認められるべきだと主張しました。
クリスチャンにとってイエスキリストによって救われ、聖霊の力によって神に従うことを第一に生きるということが一番大切なことです。しかし、神学をなによりも優越したものとしてみるということにより、経済学が必要でなくなることはありません。
むしろ神学の優越性のいみすることは、経済学を位置づけ、関連付け、そして批判するために神学が使われるべきだということです。
この神学というのは、神がこの世界を創造し維持しておられ、キリストを通してこれを贖い、最終的に裁き悪を滅ぼすということです。そして私たちがいま生きる世界は罪の影響によって神への反逆によって特徴づけられていると主張します。
経済学者にとってこの神学の主張というのは物理的な証拠をもって肯定も否定もできないものです。現代の経済学ではこの立証できるかというのが重要性を占めているため、神学の主張というのはわきに押しやられています。
神学の主張する2つ目のことは、経済学の中にも神学的構造があるということです。経済学の歴史をみると、その考えは常に神学と結びついてきました。アダムスミス、マルクス、ウェーバー、ケインズなどです。しかし、新古典派が主流になるにつれ、その伝統は忘れらて行きました。
けれども経済学というのは結局は道具にすぎません。経済学が必要とする論理的な枠組みを神学は提供できるのではないでしょうか。
そして、個人的に信仰を持っている経済学者にとって大切なのは、神学と経済学の両方を学び続け、二つの領域を関連付ける努力を続けることです。
文献:Paul Oslington, "A theological economics." International Journal of Social Economics 27,1.